たにしろぐ

日記というより備忘録です。誰かに読まれてることは想定されていませんので、覗き見感覚でどうぞ。

クワガタの話

夏になると思い出すことがある。

 

小学生の頃、北海道へ旅行をした折にミヤマクワガタを捕まえたことがある。

ミヤマクワガタは日本にいるクワガタにしては結構かっこいい見た目をしていて、まぁノコギリクワガタやオオクワガタなんかには人気では劣るが、逆にその少しハズした感じが「差をつけたい」小学生の私にとってぴったりだった。

 

私は捕まえたミヤマクワガタを飼おうと虫かごにいれ、関東の実家へ持ち帰る。

帰路の車に揺られながら、ミヤマクワガタへのストレスみたいなものを子どもなりに案じていた。

 

帰宅すると早速ミヤマクワガタの新居を構えた。

大きめの水槽に砂を敷き詰め、買ってきた木の棒の形をしたゼリー受けを静かに置く。

 

名前はスタッグ、と付けた。

クワガタを英訳するとStagだからだ。

安直で名前負けしそうだが、イケメンなミヤマクワガタにはいい名前だと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

約10日後には動きが悪くなり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう10日も過ぎるとまったく動かなくなり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらにもう10日もしたからきっと、庭の肥料になり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その数年後、庭はコンクリートで固められて駐輪スペースになった。

 

アニメレビューショウ 『正解するカド』

正解するカド

 

どうも、「よかった!」とは大きい声では言えない作品である。

 

老舗、東映アニメーションのオリジナルアニメ。そしてなぜか製作にはいっている木下グループ。

ポリゴンピクチュアズに負けじと3DCGで殴り込みをかける最先端のアニメ。

 

のはずだった。

 

フタを開けると、結局なんのジャンルに当てはまる作品なのかわからない、得体の知れないものがそこにはあった。

 

木下グループが製作に入り、0話では交渉官と町工場のやりとりが中心だったように、少し前にテレビドラマで流行った「官僚もの」のテイストを感じさせていた。

もちろんそれはフェイクで、結局はヤハクィザシュニナという、自分でもなぜ言えているのかわからないほど難解な名前のキャラクターによってリセットされる。

 

そうなると、ザシュニナ君つまり異方の人、まぁ宇宙人(全然違うけど)が、人類と出会って…というのを考える。この考えは物語を通して誰が変化するか?という点において整理できる。

主人公(人間)と宇宙人、そして世間である。

主人公が変化するのは当然だが、宇宙人に対して最初は否定的だった人が、友好関係になり、最後のお別れは悲しむ、というストーリーが展開されることが多い。スティーブン・スピルバーグE.T.』あたりがその好例だろう。

 

 

人と人、あるいは宇宙人、という点と線の関係から、「世間」という枠組みで語られるようになったのはここ最近になってからだと思う。というのも、SNSのような高速で拡散性の高いツールの存在と、宇宙人のような「異物」のあり方が、リテラシーなんかと共に問われる時代になったからだ。インフラ系SF、とでも呼ぼうか。

過度に進化したネットインフラとその世間を描いた作品だと『ガッチャマンクラウズ インサイト』あたりが挙げられるだろうか。社会に対して今よりももっと優れている(はずの)インフラを「異物」が提供する。それに対して社会がどう受容するか、するべきなのか。そういう点に焦点が当てられる。

 

正解するカド』もそういうところがある。エネルギー革命を起こせるテクノロジー、労働そのものも見方を変えるテクノロジーがどのような影響を与えるか。官僚たる主人公たちはそれを俯瞰しつつ、適切な対応をする…。

しかしながら、悲しいことに、それらしいシーンがあったのは「ワム」が与えられた時のアメリカの介入、程度である。それもいきなり最後通牒をちらつかせるなど、幼稚なものだった。あの辺りで気がつくべきだった。「そういうことがテーマではないのだ」と。

 

正解するカド』において、SNSやネットインフラの存在は、「情報を拡げるのに便利なもの」程度の認識だ。世界最大のプラットフォームとされるSettenの存在も、政府のコントロールできない状況を創り出すための演出上の装置でしかなかった。

 

 

 

 

 

物語の終盤、とっておきのサプライズ・ポイントはテレビに何かを投げつけたくなる気持ちにさせた。

 

ワムがここにあればよかったのに。投げられる。

 

 

 

……オーバーテクノロジーと社会の話ではなかった!騙された!、というのがそのサプライズ・ポイントを経た最初の感想である。

 

 

 

最後の数話で、綺麗な女の子が戦うところを観るアニメになり、戦闘が始まるかと思ったらすぐ終わり、紆余曲折があって恋愛ものになって、突如『アイアンマン』が始まったと思ったらホモアニメ、そして最後はとってつけたような家族愛とヒューマンドラマ。

 

 

今まで10話以上かけて積み上げてきたものを壊してまでやることだったのか、というと大きな疑問が残る。

故意に視聴者を置いてけぼりにする作品はあれど、それはあくまで作品を探索させる、分析させる余地を残しての場合のみ成立する。リンチの『マルホランドドライブ』、あるいはフィンチャーの『ゴーン・ガール』などがその例だ。

無論、『正解するカド』はそれらに値しない。高尚な余韻も、ライトノベルライクでチャチな恋愛関係と今となってはノイズと化した萌え要素によって消え去るからだ。

 

 

38次元だか何次元だったかもはやどうでもいいことだが、そこまで飛んで行って「結局なんにも残りませんでした」と済まされるものなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界一漢字変換の難しいヒロインであるツカエさんが可愛いということ以外に、取り立てて素晴らしい点はあっただろうか。

もちろん、可愛さを伝えにくい3DCGにおいて「可愛い」と思わせる技術は賞賛されるべきだ。

 

 

しかしながら、最後の最後まで「どういう作品なのか」がわかりにくい作品だった。

何を描きたいのか、どういう話なのか。

もちろん、特定のジャンルに拘泥する気はないが、私が言いたいのは作品の一貫性の無さである。

 

身体論だとか、切り分けようと思えばそれこそたくさんの要素に溢れる作品ではあった。細部を見れば興味深い作品なのだ。

ただ、細部だけで満足するならばその手の論文を読めば事足りるし、そういう見方をすると「実験映画」だとか、「卒業制作」だとか、テレビ放映されたアニメには不名誉な熟語が頭をよぎる。

 

 

 

 

オーバーテクノロジーを与えられた人類にとっての「正解」とはなんだったのか、ヤハクィザシュニナによる意味深な発言は、彼自身が人間性を会得することでなかったことになった。

彼が犠牲となり得たものは異方の人間と人類の共存、つまりはあの女の子なのだろうか。

もし異方との共存のあり方が混血によって綯交ぜになることなら、それはムラートだとかメスチソの話であって、わざわざ10数話のアニメでやることはなかったのだ。 

 

UFOやUMAの証言が取り留めもないように、『正解するカド』もまた取り留めのない、世界に転がっている「あまりオススメしないアニメ」の一つになってしまった。

 

 

 

 

 

 

空手をやっていました、という話

 

自分は決して背の高い方ではなく、むしろずっと小さいままに今までの人生の大半を過ごしていた。

成人式で最も言われた言葉1位は「背が高くなったね!」だった。

 

そんな華奢な自分。空手をやっていた時期がある。小1-4で割りと長いことやっていた。

4年やって面白さが全くわからず、結局嫌になって辞めてしまった。

帯の色は緑で終わった。ちなみにその道場だと次が茶色、その上が黒である。

 

帯の色というのは面白いもので、その人の強さ、経験をはっきりと表す。ガキンチョでもわかる力と階級の世界だ。

白、黄、青、緑、茶、黒、こういう順番だったと10年経った今でも記憶しているほどには印象に残っている。

ちなみに黒の上はまた白に戻る。黒帯が擦り切れに擦り切れて白くなるのだ。そういう人は道場に何名かいたが非常にかっこよかった。

 

 

空手を習ったことのある人は意外に多いと思う。

空手は形式が2つあり、「型」と「組手」がある。

「型」は個人競技だ。技の構成が決められており、それを試技して審査員に評価を受ける。

まさに型を美しく、たくましく行うことに意味がある。

今思えば武道の真髄を示すようで実にかっこいいものだが、小学生の自分、そんな良さなんかわからない。

ダンスだと思っていた。

 

ただ、昇級には型を覚える必要があり、試験前は必死になって覚えた。同期の子には絶対に負けたくなかった。

 

 

結局、自分は組手しか好きになれなかった。

組手は言うまでもなく殴り合いである。ポイント制だったか柔道や剣道のような形だったかは忘れたが、顔に装着された面(防具)を叩き殴ればいいのである。*1

この面が曲者で、顔を守るために作られているものだが、顔に強く固定されているので、殴られると痛くはないが衝撃でものすごく揺れる。

で、行き場を失った衝撃は顎をはじめとする際の方へ逃げていくので、結局痛い。

剣道の防具をつけた時に驚いた。ぶっ叩かれても痛くないとは!

 

 

当時の自分には戦法があった。

試合はじめの声の直後、迅雷の如く相手に猛進(盲進)し、一撃で勝負を決める、というものだ。

先手必勝、一撃必殺。

二撃目を想定せず、敵の出鼻を挫きに挫く。

「一の太刀を疑わず」とされた薩摩の示現流*2を彷彿とさせる必殺の戦法である。齢九つやそこらの人間がその境地に達するとは、東郷重位*3も現世にいれば舌を巻いたであろう。

 

 

……ようは真っ直ぐ突っ込んで殴るわけだ。

これが初手だと案外効く。普通は様子を見るから。

ただ所詮はアホな小学生の浅知恵に過ぎず、かわされたり失敗すれば手痛い反撃を受ける。諸刃の剣…というかギャンブルである。

 

 

空手は武道…ざっくりとスポーツなので大会もある。

型は一度出たきりだった。当時はダンスとほぼ同じ認識だった。

だいたい1回戦に勝ち、2回戦で上級生と当たって負ける、というのを何度もやった。

空手家としては全く芽は出なかった。

出す気もなかった。

 

 

辞めた理由はいくつかあるが、つまりは空手があまり好きではなかったというのが一番だった。

練習ではどうサボるか、どう時間を過ごすかを考えていたし、冬場でも裸足でなければいけないのが堪えた。

 

 

今となってはなぜ空手を始めたのかも定かではない。

当時は友だちもいた。男の子1人、女の子1人。三人組でいつもいたがあの2人が今なにしているかはわからない。女の子の名前だけは思い出せる。空手の先生が「そんなことやってると本に挟むぞ!」というジョークを話していたことを未だに覚えているからだ。オヤジギャグも侮れない。

 

 

 

得たものはよくわからないし、今や本当に自分が空手教室に通っていたのかさえ何だか捉えきれない思い出になってしまった。

 

ただまぁ、夏の夜の道場から帰るとき、木に吊るされた提灯の灯りとそれに照らされる石畳、そこに映える鮮やかな白色の道着、各々が蒸れた布の匂いを漂わせながら薄暗い道を歩いて行く様は(かなり)美化されつつも心象風景のひとつとして自分のなかに残っている。

 

 

 

*1:極真空手ではその面すらなしでやり合うのだからものすごい。あまりよく知らないが…。

*2:薩摩藩を中心に栄えた古流剣術。『先手必勝』を旨とし、「キィエーイ!」と激しく声を発しながら斬り込むことで有名。

*3:示現流の流祖。戦国時代から江戸時代の人で、島津氏に仕えた。

笑うことについて

 

 

中学時代の教師にすこし変わった人物がいた。

 

授業で丸々映画を観たり、テキストにマンガやアニメのキャラクターを起用したり、変なニックネームを使ったりと、すこし不真面目なイメージが親近感を呼び、随分と生徒に人気があった。自分はもう少し真面目にやってくれないかな…とクソ優等生ぶっていた。

 

ある日、授業内で映画を観ることがあった。

もちろん洋画で、『俺たちフィギュアスケーター*1ジュマンジ*2と言ったラインナップだった。

 

なかなかのチョイスである。確か他の候補だと『バタフライ・エフェクト*3とかもあったと思う。

今だったら『ベイビー・トーク*4とかやって欲しいな。

 

 

その日は『ナイト ミュージアム』だった。

ナイト ミュージアム』は有名な映画だ。

夜の博物館に警備員として入った主人公。だが、その博物館では展示物の数々が夜になると命を吹き込まれ、動き出す。

でコメディあり感動ありのいい映画で、続編まである。

 

もちろん(?)吹き替えではなく字幕で観るのがお決まりで、コメディ映画なのもあってみなケラケラと笑っていた。

 

 

 

 

映画の上映が終わった後、その先生が締めるように話したことが印象的だった。

今君達はよく笑っていたが、人はいくら面白いものがあっても、その面白さを理解する頭がないと笑うことはできない、というものだった。

 

 

 

 

それもそうだ…と少し考えさせられたのを覚えている。

パロディなんかが最たるものだが、まず元ネタがわかっている知識が必要で、さらにそのシーンとの類似性を見抜く力がいる。そしてそれをシャレとして受け取り、笑う力。

ナイト ミュージアム』では歴史ネタがよく出てくる。古代ローマ、西部開拓時代、セオドアだったかフランクリンだったかルーズベルトの話。

なかには『テッド』*5のボストンネタ*6のように、日本人の感覚には少し難しいものもある。

ただ、その中で笑える、というのは案外高度なことをしているのかもしれない。

 

ハリウッドにとっては海外の、それも文化も人種も異なる極東の中学生にすらわかる面白さはさすがハリウッド!という感じだし、翻訳や(今回は違うが)吹き替えで面白くしようとする裏方の人の仕事もまた確実に無視できないものだ。

 

 

 

そういえば『ナイト ミュージアム』も3はまだ観ていなかったし、今度観てみるのもいいかもしれない。

 

*1:全米でヒットしたスポ根コメディ映画。ナヨナヨした男とセックス依存病の男がフィギュアスケート「ペア」をやる映画。

*2:これも有名な映画。止まったマスのことが実際に起きる不思議なすごろくの話。

*3:タイムリープものの大家。主人公はタイムリープを繰り返しながら過去を変えていくが、その影響で変わってしまう未来と葛藤していく話

*4:そのトークするベイビーがブルース・ウィリスの声。この面白さがわかれば好きだと思う。

*5:テディベアがノラ・ジョーンズとセックスした設定になってるすげぇ映画

*6:アメリカンフットボールのチーム、ニューイングランド・ペイトリオッツのロブ・グロンコウスキーのネタを持ち出したりと、ボストン以外にもそれはそれはものすごい量のパロディがある

ある冬の日のインターンの話

 

6月になり、自分の次の世代の就活が始まった。

「サマーインターン」という懐かしワードに触発され、冬に行ったインターンの話をしようと思う。

 

 

 

 

 

就活がいよいよ始まるという2月の中旬、私は1日限定のインターンに参加すべく東京にいた。

スーツだけではまだ寒く、私はコートを着ていたが、当時はスーツ用のコート*1を持っていなかったので大学に着ていくような普通のコートを着ていた。

時間は集合10分前。受付に向かうと女性社員が立っていて、グループワークの班に案内してくれた。

 

 

 

 

 

スーツ用でないコートが大量の毛玉を出し、脱いだ時には毛塗れのスーツに閉口しつつ、バシバシとスーツを叩きながら自己紹介をする。

「○○大学、○○です。今日はよろしくお願いします。」

 

特別変わったことは言わなかった。

 

 

すると、班での自己紹介はまだだったようで、左隣の女の子が自己紹介をする。そのまま時計回りで自己紹介をしていく。総勢7名。

 

 

斜向かいの男の子は大隈大学だそうだ。

大隈大学*2の友達は多いな、と考えていると、他の班のお喋りが聞こえてくる。

「どこから来たの?」「私、千葉」「えー!私も千葉!千葉のどこ?」

その話膨らましてなにが面白いのかなぁ…と考えていたら前で社員が喋りはじめた。

 

 

 

インターンが開始された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先ほどとは異なる側のお隣、つまり私の右側にはこれまた女の子が座っていた。

美人である。*3

大学のランクは周りの人間とは少し落ちるものの、スーツ姿になんとなく気品を感じていた。

 

 

人間、育ちは存外出るものだ。

文具の質、文字の書き方、書く時の姿勢、

所作の丁寧さやその意味の有無など、無意識だがしっかりと人が出てくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グループワークが始まる。

詳しくは覚えてないが、データを基にクライアントへの提案・発表を行う、というものだった。

始め、の合図とともに大隈大学の彼が話し始める。

どうやら彼はイニチアシブ*4をとりたいらしい。

 

イニチアシブはいいが、優秀な人がやらねば全く意味のないものになる。

…でも大隈大学か、優秀なのかな。

 

 

 

ライバルになるような学歴の人間はいないし、 彼に任せることにした。

 

 

 

私は配布されたデータを基に、まずは議論の路線を提示することにした。

だが、半分くらい話したところで必ず大隈大学の彼に遮られてしまう。

「あ!!うん!!そうそう!そのデータが…!」

いいから聞いてくれ…

 

やりとりを3回くらいしたところで、私はもう嫌になっていた。やりたい人がいるなら任せよう、敵視されて意見を通されないくらいなら大人になろう、な?と、自分に言い聞かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと、右側の女の子を見てみる。

手元のデータの見方に四苦八苦しているようだった。

失礼かな?と思いながら横から、簡単に説明する。職業柄、説明するのには慣れているからだろうか、しっかり伝わったようで、感謝された。

 

一瞬、缶コーヒーを例に持ち出して説明をしようとしたが、もしめちゃくちゃなお嬢様で、「あら、私、コンビニエンスストアは使ったことがなくてよ。いつもお父様が淹れてくださる、現地で豆からこだわったグァテマラ産のコーヒーしか飲まないの」とか言われたらどうしようかと思ったが。

 

 

…杞憂だった。

とても感謝された。

 

 

 

 

 

 

 

 

美人に感謝されるに吝かでない。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、データを読み取れないのは女の子にとってもツラいだろう。

議論はデータをもって進められる。そのデータを読み取れないのは議論の基盤についていけないことに繋がり、つまるところ落伍を意味する。

そうなると彼女は今日ここに来た意味はなくなるわけで、その労力も、金も、化粧も、心の準備も、まったくの無駄になる。

それはかわいそうだ、と変な視座から考える。

 

 

私はもう完全に風見鶏を決め込んでいたし、説明の間に他の5人で議論が進んでいて今更話を聞くわけにも戻すわけにもいかない。

無駄にしつつあるのは自分の方だとも思った。

この1日、この美人に賭すか…とかアホなことを考えていた。

 

 

 

私は彼女を援護しつつ、(自分にとっては)控えめな態度で意見を奏上した。言いたいことはいくらでもあった。議論の進め方、発表用模造紙のデザイン、そもそもの結論、不慣れなグループワークにストレスを感じる。

 

 

 

 

 

 

 

なんやかんやあって、女の子は模造紙へ文字を書く役割を担えたようだ。

字は特別綺麗ではなかったが、要所要所を締めた実に読みやすい字だった。

大隈大学の彼はと言うと、発表をする役割に立候補し、発表用原稿を書いていた。

「何か手伝おうか?」と訊くも、無視。

俺が一体何したんだ?と困惑するしかなかった。

 

 

結局、なんの役割も担えなかったのは自分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発表は滞りなく終わった。

そこまでいいものではなかったが、他の班も大概で、企業側もまぁこんなもんだよな、という反応だった。

 世界一適当な「お疲れ様でした」がグループ内で飛び交う。

 

 

 

プレゼン発表を見ていていつも思うが、わずか5分ばかりの発表のなかで、前半と後半で発表者をわけるのは意味がわからない。

代表者(発表者)は1人で十分だと思う。

なにより時間がもったいないし、聞く方は前半と後半で分業がなされていて、各々の部署から代表者を1名ずつ立てたのかな?と感じる。もし後者ならそれはグループワークの意味がなくなるのだが。

 

 

 

 

 

 

結局、どうも茶番のような形でインターンが終わってしまった。

企業側も学生側もマイナスなイメージを持たれたくない。そうすると自然と生温いものになる。

 

 

残念だな、と思いながら班員に挨拶し、もはや居心地の悪くなりつつあった自席からそそくさとビルの外へ出ると、もう夜になっていた。

 

 

 

 

ビル群の夜は嫌いじゃなかった。

寒いな、とコートを着ていると、先ほどの女の子が遅れて出てきた。

私と目が合うと「お疲れー!」とこっちにやってくる。

表情だけでリアクション。

とっさのことで、声はなかなか出てくれない。

やっと、「駅、向こう?」と訊く。

どうやら同じ駅のようだ。一緒に歩き出す。

 

 

 

 

 

先ほどの班で左側にいた女の子が視界の隅にチラッと見えた。

 

 

 

 

 

……見えただけにした。

 

 

 

 

 

 

インターン会場は幾つかの駅の間にあり、アクセスそのものは便利だったがそのぶん各駅までは少し歩くことになる。

駅までは話す時間が少しある。

インターンあるあるだろう。

 

女の子は思っていたより多弁で、色々と話してくれた。

広告代理店に勤めたいこと、姉がいて、ブラック企業に入社してしまっていたこと、サークルのこと、学校のこと。

なんとなくお嬢様なのだな、と重ねて思った。

余裕があるし、初対面の人に自分の家族の話をするのはなかなか珍しい。

表現しがたいが、「自分という存在が好意的に受け取られている」ことを前提にした話し方だった。

 

 

美人なのもあって、話すのは楽しかった。

興味の分野も共通するところはあり、合わせていくと本当に色々と話してくれた。

ところどころ住んでいる世界が違うな、と感じるのもまたよかった。

 

 

アインシュタインよろしく、*5楽しい時間は過ぎ去るもので、駅に着いた。

 

 

女の子は「○○行きだよ」と話す。○○はセレブな街で有名な場所だった。東京の西の方へ行くらしい。

 

 

なるほどな、と思いつつ、同じように答えなければならなくなった自分の行き先を呪った。

行き先となる埼玉の北の方の地名はどれも田舎臭い。

終点となりそうな北の方でなくても、全体的に埼玉感が出てしまう。

 

 

ひとしきり悩んで、「北のほう」とだけ言っておいた。

なんだそりゃ

 

 

言ってからなんだか古いドラマみたいだな、と思った。*6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はご飯に誘ったり連絡先を聞いたりする不埒な輩ではないので(勇気もないのだが)そこでお別れをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく不思議な気分だった。

就活をしていると、色々な人々の人生に出会う。

ほとんどが一期一会だが、それぞれの出会いが実に小さいながらもお互いに影響を及ぼしあっている。

出会いが云々と高説垂れる気はないが、人生のすれ違い、残像を重ねるようで面白い体験だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、そのインターン先の御社はエントリーしなかった。受ける業種も異なるので、班員やあの女の子とはもう二度と会わないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一期一会とはそういうものだが、悪い気持ちはしなかった。

 

 ただ、コートをもっとキチンとしたものにした方がよかったかな、と電車に揺られながら考えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

*1:ビジネスコート?とかそういう類の

*2:わかるとは思うが、クマがマスコットで高田馬場にある大学のことである。スクールカラーは臙脂色

*3:実際には「うっわ!かわい!」という反応

*4:この場合、マウントとも言う

*5:アインシュタインは構築した相対性理論に関して、「熱いストーブの上に1分間手を当ててみて下さい、まるで1時間位に感じられる。では可愛い女の子と一緒に1時間座っているとどうだろう、まるで1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です」とのユニークな言葉を残している。出典はWikipedia

*6:具体的には『あまちゃん』の「潮騒のメモリー」の一節、「北へ帰るの 誰にも会わずに 低気圧に乗って 北へ向かうわ」の部分、そしてそのパロディ元の「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)「高気圧ガール」(山下達郎)。

中学の夏の思い出

 

中学生の頃、サマーキャンプのようなものに行ったことがある。

確か青少年赤十字が主催していたもので、県内の中学から2-3人くらい参加していたと思う。

自分は内申点*1が欲しかったのと部活をサボりたかったのとで、二泊三日だかそれくらいのサマーキャンプへ行くことにした。

 

 

埼玉県の加須市だったと思う。長閑な風景と、広義には青少年の倫理保護のために設置されたポスト*2が印象的だった。

 

自分の学校からは自分と、同じ部活の仲間1人、そして別にもう1人参加していた。

 

アイスブレイクから始まり、赤十字主催だけあって、数多くのアクティビティが用意されていた。

 

特に取り上げるまでもなく、授業はつまらなかった。

みなが無償の愛だとか、ナイチンゲールだとかマザーテレサだとか色々と言っている。大人たちは目をらんらんとさせて生徒たちに自分の理想を語るのだった。

自分自身そもそも奉仕の精神が皆無であり、ボランティアなど糞食らえな人間に言っても馬の耳に念仏*3である。

 

とかくつまらないものだった。

 

 

また、アクティビティがあるわけで、つまりはグループというものがあった。

自分のグループはまずまずよくやれていたと思う。

当時の自分は初対面の人といきなり上手くやる手腕がなかったから難儀していたが。それでも話せば仲良くなることはできるので、一度距離感を掴めば簡単だった。

 

 

 

 

 

そして中学生が一定数集まれば当然のことだが、カーストが形成される。

 

久喜の人だったか、一目でそれとわかる野球部の人が3人。

彼らがお山の大将だった。セクシャルアピールの強い個体*4がお山の大将になるのは自然の理である。

自室に女子を呼び、大声で話して、叫んで、静かになったと思ったらいちゃいちゃしていた。

 

中学生なんてそんなものだ。

 

当時の自分はそういう人種を毛嫌いしていた。

自分にはできない、という嫉妬も混ざっていた。

 

「誰と誰が手を繋いでいた、ケータイを使ってこんなことをやっていた」

ウェイに追い出され、泣く泣く自分の部屋に来た部活の同級生の愚痴に似た報告を聞く。

2人で2段ベットの上に寝転がり、薄汚れて所々シミになった天井を蹴りながらお互いの境遇を慰めあった。

ベッドの下から大富豪*5に誘う声が聞こえる。

結局、配られたカードで勝負するしかないのだ。

 

 

 

 

アクティビティには色々種類があり、キャンプの参加者は皆何かを企画し、主催することが義務付けられていた。

施設にあった将棋を使って将棋大会をしたり、ダンスを踊ってみたり、みな思い思いに楽しんでいた。

 

野球部は朝の筋トレを企画していた。

いっちにっ、さーーーん

という全国の野球部伝統の掛け声とともに、いち、で右足を横に出し、に、で左足を横に、さーんでスクワットする、ということを何十回かされた。

広場の参加者たちはキツいキツいといいながら朝の運動に顔を綻ばせている。

自分は運動こそ嫌いではなかったが、気にくわない連中の掛け声でスクワットするのに最後までいい気がしなかった。

 

 

 

結局、自分は企画・主催をしなかった。

何人かいた大人には注意をされたが、ずっと無気力な態度を取っていたからだろうか、あまり深く言われることはなかった。

 

グループでも最後のプレゼンが控えていた。

プレゼンは昔から得意で、ペープサートを使った発表はそこそこの評価を得た。

グループのメンバーにも色々と感謝された。

自分には頭をひねることしか能がなかった。

 

 

 

最終日の朝、キャベツの千切りにサウザンアイランドドレッシングをかけながら思う。

結局、なんだったのだろうか、と。

赤十字という看板のもと、宗教じみた授業とアクティビティの数々。

自由時間はウェイが跋扈し、うだつの上がらない自分らは何も言わず大富豪に興じる。手札にエース以上の札が来ないことを嘆いてはいけない。

 

 

自分が得たものは、結局自分はそういう雰囲気に乗っかることのできない人間だ、という認識。

一歩引いて考える。「意味のあることか?」

それが空気を悪くすることだってことは知っている。だから1人で悶々と読書をする。

 

 

あまりに悶々と読書をするもので、施設に置いてあったナイチンゲールの評伝を全て読みきってしまった。

最も面白かった場面はどこか。

 

それはナイチンゲールが従軍したクリミア戦争に於いての、戦闘の様子が仔細に描写されたシーンだった。

クリミア戦争に於いてロシアはその後進性が露呈し、改革を余儀なくされ、ヨーロッパの盟主だったオーストリアは外交の失敗から落日の色を見せる。

 

自分も改革が必要だろうか、付き合い方に問題があっただろうか…

そんなことを考えていたかは今となってはわからない。

 

だが、白衣の天使に興味を持たず、戦争の描写を嬉々として読む自分はつまりそういう人間だった。

それでいい。

 

今でも思う、満足だ。

 

 

 

 

 

 

1年が経っただろうか、ある日、当時のグループのメンバーとばったり遭遇した。

うだつの上がらない大富豪仲間だった。

 

1年くらいでは変わらない。

相変わらずうだつの上がらない奴だった。

 

 

今となってはもうわからない。

 

 

 

 

*1:成績に加算される課外活動の点数

*2:狭義にはエロ本収集ポスト

*3:一応述べておくが、しっかりと賃金を支払うことが責任を持つことに繋がり、下手に正義の旗の下、無料で働かせるよりも効率の良く、いい仕事が出来るものだという思想から来ている。

とある人物・団体がボランティアを勧める時、つまりはその勧める側が雇う・主催する側の場合、それはほとんど無料の人夫を集めたいだけだと思っている。

*4:声と身体とイチモツのデカさがそれである

*5:2が一番強いトランプゲーム。なぜ2が一番強いのかは誰も知らない。

【没ネタ】『氷菓』実写化をポジティブに捉える思考実験

 【没ネタ】です。諸般の事情により(だいたい飽きたとき)下書きで死んでいたログを発掘して没ネタとして供養しようというものです。時期など全く無視しています。ご了承ください。

 

 

 

 

 

氷菓』が実写映画化されるようです。

 

折木奉太郎役に山崎賢人

千反田える役に広瀬アリス

監督は『リアル鬼ごっこ』シリーズの安里麻里監督。

 

スタッフ・キャスト

まずは監督の話から。

安里麻里監督のフィルモグラフィを見たが、見たことのある作品はなく…(´・ω・`)

正直興味を惹かれるものもなく…。

アンリ・マリさんなんだよね、Fateファンならわかるかな

 

ただ、映画史的な怪作『ソドムの市』*1のリメイクをやっていたり、『リアル鬼ごっこ』シリーズをやっていたりするあたり、ホラーやサイコ物を得意とする監督さんかなぁという印象。

 『氷菓』はサイコホラーになってしまうのだろうか?笑

 

 

 

 

 

 

次、キャスト。

山崎賢人がどうも好きではない…。

とってもかっこいいと思うし、女子高生に異常にウケがいいのは納得できるが、正直そんなに上手くないと思う。

折木奉太郎は省エネの捻くれ者で、「そうですか」を「さいで」などと言うタイプの人間である。

 

 

 

山崎賢人はどうも昨今によく見られる控えめな男の子の役が多い。*2つまり、今流行りのジャンルというか雛形によく合った俳優なのだろう。

 

千反田えるが話を引っ張っていく『氷菓』の大枠は、山崎賢人の得意とする(得意というかよくやっている)主人公像に近いが、その中でも少し(かなり)捻くれた折木奉太郎をどう演じ分けるかが重要になってきそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「問題は、」と千反田える原理主義*3の方々は言うだろうか。f:id:sophietake:20161122165954j:imagef:id:sophietake:20161122165928j:image

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うーん、「似る」必要はないけれど、もう少し「深窓の令嬢」感が欲しいところだった。

彼女は土地では有名な豪農の娘で、いわゆるお嬢様なわけだ。そして「遠回りする雛」で言及されるが、*4土地の豪農という生まれから来る将来への諦めというか、もう道筋が見えてしまっている苦しさ、みたいなものが描かれる。

そう、ただ可愛いお嬢様なわけではないのである。

 

千反田えるが物語のエンジンの役目を果たし、かつ物語そのものの核心を突くかなり大きな存在であるのは疑いようのないところだ。

 

 

脚本

最も「気になる」のは脚本である。

原作はシリーズ化されており、『氷菓』は短編集の体裁をとっている。

アニメ版での成功がどうしても付いて回り、*5自分はせいぜいドラマ化だと思っていた。

映画となると、尺は2時間とそこら。三幕構成としてどこまでやるか?という問題が生まれる。いくつか案を出してみる。

 

  1. 氷菓』のみ
  2. クドリャフカの順番』まで
  3.   オリジナル

 

1. 『氷菓』のみ

カンヤ祭の由来を知るところまでの話になる。アニメ版だと1-5話。1話あたり正味20分として、1時間40分。少し短い。アニメ脚本と映画脚本はまったく別物で、アニメの方がセリフやカット割りの頻度が高い印象がある。つまり、まったく同じ内容をやるとすれば、実写版ならもう少し長くなるのではないか。

 

もし、エピソードを足すとすれば、(オリジナルは置いておいて)『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』なわけだが、これらは文化祭を題材にしているわけで、カンヤ祭のエピソードがないと文化祭そのものの背景が薄れてしまう。

 

でもまぁカンヤ祭の意味で終わるのは明らかに盛り上がりが欠けてしまいそう。

 

 

2.『クドリャフカの順番』まで

これはもうめいっぱい詰め込んだ形。駆け足!駆け足!という感じになりそう。

無理でしょう、要素が多すぎてパンクします。

絶対無理です。試しにプロット書いてみて欲しい。

 

 

3.  オリジナル

嫌だなぁ、というところ。怖いじゃないですか。

恋愛の要素をどの程度入れるべきか、入れるとして告白だとか実際の行動に移すか否か。

そもそも氷菓』はミステリーである。米澤穂信のちょっと若い感じの文書がいい味出してる話で、恋愛要素はあっても、それは成就するしないの話ではなくて、友達以上になってしまうのか?という人間関係で一番難しくて面白い関係をあくまでたくさんある要素の中の一つで書いている。

 

つまり主題ではない。要素。

ご飯じゃなくてふりかけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とここまで書いて飽きたので没ネタになりました。

氷菓』はどうなるのでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:サディズム」の語源になった、マルキ・ド・サド原作で、監督した奇才パゾリーニは後に変死を遂げた、エピソードに事欠かない映画。オススメはしない。好きな人はカルトレベルでハマるけど。

*2:四月は君の嘘』『orange』なんかがそう言えるだろう。両方とも、勝気な女の子が引っ張っていく構図である。

*3:千反田えるを3次元に引っ張り出してくれるな!と主張する過激的な学派。2クール目OPで奉太郎をガラス戸から引っ張り出した千反田えるとは逆のことをやっている。

*4:アニメ版だと最終回のあたりである

*5:企画段階でアニメ版が成功したし!というのはあったはずなので織り込み済みだが