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たにしろぐ

日記というより備忘録です。

『聲の形』を観て

題の通りですが、『聲の形』を観てきました。

素晴らしい作品でした。

 

「寸分の狂いもない」

京アニは山田監督を意地でも手放してはいけませんね、というのがまず一つ。

ローアングル、視点ショットの多用、絞りや光量を思い切り飛ばす演出、実に挑戦的です。視点ショットは何本あったでしょうかね、最後の方なんか視点ショットにしてさらにぐるぐるやってましたからね。これだけ自由の利いて、かつそれを象徴的に作用させる余地のあるのが、アニメのいいところなのだと思います。

 

個人的に好きなのはケータイ電話の使い方でした。使っていたノートは過去のものとして一度置いておいて、新しい会話のツールとしてのケータイ電話は実にスマートで不可欠な存在です。アドレスを知ってから物語が走り出していく感じがして好きだな、と思います。

キャッチーな(というと語弊がありますが)手話の提示もよかったと思います。「またね」「友だち」などがそれにあたりますが、とくに最初の「またね」は素晴らしかった。観客に対して「またね」が時間差で提示されるって上手いというかズルいですよね。

そして、劇中でわかるような簡単な手話もある一方で、「わからない」ポイントもたくさんありました。手話だけが提示されて、どういう会話をしているのかわからないシーンです。こういうセリフなしの会話が登場人物のなかで交わされる作品はあまりないと思います。思いつくことだとせいぜい内緒話くらいでしょうか。観客を敢えて置いてけぼりにさせることで、後述の「わからない」感をより強く打ち出すことができたのではないでしょうか。

 

原作を読んだ身としても、映画化するにあたってここはいらないだろうな、という要素が見事にすべて抜かれていました。寸分の狂いもないシーンの数々です。無駄なものなんて何もなかった。???というポイントが何もなかった。

 

音楽の話

まず観始めた時、音楽に違和感を覚えました。ちょうど小学生のシーケンスですね。当初、あ、これはミスマッチなのかな?と思っていましたが、そんなことはありませんでした。

ドイツの劇作家・演出家にブレヒト、という人物がいます。彼は「異化効果」を唱えました。本来、私たちは物語に接するとき、その登場人物であったり、場面であったり、色々なものに感情移入します。

もし、「いい作品」の条件とは?と聞かれたらどう答えるでしょうか?必ず何人かは、「感情移入できる」あるいは「物語に没入できる」と答えるはずです。

ブレヒトはそこに異議を唱えました。「没入」の反対として「異化」を示したのです。観客と舞台の人間を一致させるのではなく、観客を観察者として据え置き、舞台はまた別の物として文字通り異化させるわけです。

序盤の音楽は異化を狙ったのではないだろうか?というのが私の考えです。私たちは西宮さんに感情移入してはいけないのです。石田にも、誰にでも。小学生の西宮さんのアイデンティティは聾唖者としてのアイデンティティなわけで、そこへ私たち観客が感情移入しようだなんて、考えてみればおかしな話なのです。

 

「わからない」

西宮さんに対して抱く、「わからない」という気持ちが重要なのです。西宮さんと私たちは完全に異なるものなのですから。

「わからない」人を見ると、人間はイライラします。これはもう仕方のないことなのですが、そういう気持ちを代弁してくれるのが植野というキャラクターです。私は植野が大好きです。彼女がいなければこの映画・漫画はかなり違ったものになっていたでしょう。私たちにとって数少ない「わかる」キャラクターだからです。私たちは植野に対して反発の気持ちを抱きつつ、ただ一方でわかってしまう苦しさがあります。「人間くさい」を超えて、あれは私たちです。

 

そういう意味で、ブレヒトのように私たち観客を観察者として置くとどうなるでしょうか。

そうです。観客は一歩引いて考えることができるのです。自分の小学生の頃、いじめられた記憶、いじめた記憶、見過ごした記憶。

これらの感情や記憶は、登場人物たちとは少し異なるけれど、私たち誰にでもあることを確認することができる。この確認で、後半からクライマックスにかけて、西宮さんや石田を感情移入、というよりはある少女と少年の物語としてしっかり見届けることができる。

これは非常に卓越した眼差しです。

もし、泣いた方がいるとすれば、それは聾唖者の女の子や、いじめられた男の子に対する「同情」の涙でしょうか?そんなことはありません。強く生きた彼らのその生き様に涙しているのです。

音楽の話から、主題に切り込むというのは初めてなので歯がゆい思いがあります。色々と付け焼き刃稚拙なのは言うまでもありません。ただ、「聲」がテーマになっているだけあって、音や音楽には非常に気の使われた作品だったと思います。ラスト、私はあれだけ感動的な「対話」のシーンは初めて観ました。「告白」「独白」ではなくて、驚くべきことにただの「対話」なのです。これはものすごいことです。

 

そういう批判があったらしいので、無理やりに「感動ポルノ」の話を照らし合わせると、私の指摘した主題を見れば違いが一目瞭然なのがわかります。「感動ポルノ」はああ、かわいそう、こんな人を助けてあげないと!という視点が必要になります。募金してもらわないといけないわけですから。

ただ、この作品は異なりますね。一々言うまでもありませんが、西宮さんは聾唖者というアイデンティティ以外にもたくさんの側面があります。耳が聞こえないということ以外は普通の女の子なのです。

ですから、視点として提示するならば、助けてあげないと!というよりは、普通の女の子として、普通の高校生のちょっとドラマチックな日々に対する暖かな眼差しなわけです。

 

ここまで書く理由として、まぁ『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という漫画がありまして、とある会社への企画書のために読んだ作品が一因となっています。

かの作品は吃音症の女の子の話なのですが、「どもり」や「吃音症」という言葉は一度も出てきません。つまり、「どもり」の話ではないのです。安っぽい御涙頂戴なんてやめてしまえ!

ということを熱弁したら落とされたので根に持っているだけなのですが、それとは別に、映画でもなんでも、「人間を描く」ことをまず最初に捉えなければいけないと強く再認識しました。

 

 とてもいい作品でした。たぶん劇場でもう一度、さらに何度か観ることになると思います。