たにしろぐ

日記というより備忘録です。誰かに読まれてることは想定されていませんので、覗き見感覚でどうぞ。

アニメレビューショウ 『正解するカド』

正解するカド

 

どうも、「よかった!」とは大きい声では言えない作品である。

 

老舗、東映アニメーションのオリジナルアニメ。そしてなぜか製作にはいっている木下グループ。

ポリゴンピクチュアズに負けじと3DCGで殴り込みをかける最先端のアニメ。

 

のはずだった。

 

フタを開けると、結局なんのジャンルに当てはまる作品なのかわからない、得体の知れないものがそこにはあった。

 

木下グループが製作に入り、0話では交渉官と町工場のやりとりが中心だったように、少し前にテレビドラマで流行った「官僚もの」のテイストを感じさせていた。

もちろんそれはフェイクで、結局はヤハクィザシュニナという、自分でもなぜ言えているのかわからないほど難解な名前のキャラクターによってリセットされる。

 

そうなると、ザシュニナ君つまり異方の人、まぁ宇宙人(全然違うけど)が、人類と出会って…というのを考える。この考えは物語を通して誰が変化するか?という点において整理できる。

主人公(人間)と宇宙人、そして世間である。

主人公が変化するのは当然だが、宇宙人に対して最初は否定的だった人が、友好関係になり、最後のお別れは悲しむ、というストーリーが展開されることが多い。スティーブン・スピルバーグE.T.』あたりがその好例だろう。

 

 

人と人、あるいは宇宙人、という点と線の関係から、「世間」という枠組みで語られるようになったのはここ最近になってからだと思う。というのも、SNSのような高速で拡散性の高いツールの存在と、宇宙人のような「異物」のあり方が、リテラシーなんかと共に問われる時代になったからだ。インフラ系SF、とでも呼ぼうか。

過度に進化したネットインフラとその世間を描いた作品だと『ガッチャマンクラウズ インサイト』あたりが挙げられるだろうか。社会に対して今よりももっと優れている(はずの)インフラを「異物」が提供する。それに対して社会がどう受容するか、するべきなのか。そういう点に焦点が当てられる。

 

正解するカド』もそういうところがある。エネルギー革命を起こせるテクノロジー、労働そのものも見方を変えるテクノロジーがどのような影響を与えるか。官僚たる主人公たちはそれを俯瞰しつつ、適切な対応をする…。

しかしながら、悲しいことに、それらしいシーンがあったのは「ワム」が与えられた時のアメリカの介入、程度である。それもいきなり最後通牒をちらつかせるなど、幼稚なものだった。あの辺りで気がつくべきだった。「そういうことがテーマではないのだ」と。

 

正解するカド』において、SNSやネットインフラの存在は、「情報を拡げるのに便利なもの」程度の認識だ。世界最大のプラットフォームとされるSettenの存在も、政府のコントロールできない状況を創り出すための演出上の装置でしかなかった。

 

 

 

 

 

物語の終盤、とっておきのサプライズ・ポイントはテレビに何かを投げつけたくなる気持ちにさせた。

 

ワムがここにあればよかったのに。投げられる。

 

 

 

……オーバーテクノロジーと社会の話ではなかった!騙された!、というのがそのサプライズ・ポイントを経た最初の感想である。

 

 

 

最後の数話で、綺麗な女の子が戦うところを観るアニメになり、戦闘が始まるかと思ったらすぐ終わり、紆余曲折があって恋愛ものになって、突如『アイアンマン』が始まったと思ったらホモアニメ、そして最後はとってつけたような家族愛とヒューマンドラマ。

 

 

今まで10話以上かけて積み上げてきたものを壊してまでやることだったのか、というと大きな疑問が残る。

故意に視聴者を置いてけぼりにする作品はあれど、それはあくまで作品を探索させる、分析させる余地を残しての場合のみ成立する。リンチの『マルホランドドライブ』、あるいはフィンチャーの『ゴーン・ガール』などがその例だ。

無論、『正解するカド』はそれらに値しない。高尚な余韻も、ライトノベルライクでチャチな恋愛関係と今となってはノイズと化した萌え要素によって消え去るからだ。

 

 

38次元だか何次元だったかもはやどうでもいいことだが、そこまで飛んで行って「結局なんにも残りませんでした」と済まされるものなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界一漢字変換の難しいヒロインであるツカエさんが可愛いということ以外に、取り立てて素晴らしい点はあっただろうか。

もちろん、可愛さを伝えにくい3DCGにおいて「可愛い」と思わせる技術は賞賛されるべきだ。

 

 

しかしながら、最後の最後まで「どういう作品なのか」がわかりにくい作品だった。

何を描きたいのか、どういう話なのか。

もちろん、特定のジャンルに拘泥する気はないが、私が言いたいのは作品の一貫性の無さである。

 

身体論だとか、切り分けようと思えばそれこそたくさんの要素に溢れる作品ではあった。細部を見れば興味深い作品なのだ。

ただ、細部だけで満足するならばその手の論文を読めば事足りるし、そういう見方をすると「実験映画」だとか、「卒業制作」だとか、テレビ放映されたアニメには不名誉な熟語が頭をよぎる。

 

 

 

 

オーバーテクノロジーを与えられた人類にとっての「正解」とはなんだったのか、ヤハクィザシュニナによる意味深な発言は、彼自身が人間性を会得することでなかったことになった。

彼が犠牲となり得たものは異方の人間と人類の共存、つまりはあの女の子なのだろうか。

もし異方との共存のあり方が混血によって綯交ぜになることなら、それはムラートだとかメスチソの話であって、わざわざ10数話のアニメでやることはなかったのだ。 

 

UFOやUMAの証言が取り留めもないように、『正解するカド』もまた取り留めのない、世界に転がっている「あまりオススメしないアニメ」の一つになってしまった。