たにしろぐ

日記というより備忘録です。

『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は『君の名は。』ではない

 

ネタバレしています。

一応、原作*1の内容は軽く説明していますが、書いている人間が原作を観ているので、観ていない人にはわかりにくい部分が必ずあります。

下は私が観た「原作」と呼ぶ作品です。

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? - New Color Grading -」をU-NEXTで視聴 http://video.unext.jp/title/SID0030635?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nonad-sns 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやー、楽しみで楽しみで!今日観てきたので色々とお話ししようと思います。

リリィ・シュシュのすべて』『リップヴァンウィンクルの花嫁』で有名な岩井俊二監督のスペシャルドラマが原作でした。

 

原作観ましたし、岩井俊二監督作品は結構好きなので他にも何作品か見てますが、『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』も「ミステリアスなヒロインがわけのわかっていない主人公を連れ回し、なんやかんやで主人公も楽しんでいい感じになったところでヒロインが唐突に退場する」あたりとか、横臥するヒロインに這う虫とか、特に割と最近観た『リップヴァンウィンクルの花嫁』に似てる点が散見されて、絵の美しさと共に、岩井俊二だなぁ!と思ってそれはそれは面白く観ました。

 

 アニメ版はネットではなんだか色々と叩かれていますが、私が言いたいのは3点です。

原作厨であることを認めつつ、進めたいと思います。

  1. なぜタイムリープにしたのか
  2. なぜ夜のプールのシーケンスをカットしたのか
  3. なぜそんなに花火を乱れ打つのか

 

(よかった!と思ったことは後から書くことにします。)

 

・なぜタイムリープにしたのか

原作でも物語時間*2を戻すことはありましたが、その回数は1度だけ。プールでの50メートル競争の時のものです。ちなみにで話すと、あの光る石のようなものは原作には登場しません。

アニメ版では作品後半でタイムリープ前の記憶、最終的には「もしかしたら経験していたかもしれない世界線の自分」の記憶が蘇りましたが、原作では最後まで記憶は蘇りません。タイムリープというより、選択による(半ば事故ですが)別ルートを見るようなイメージです。

これは結構大きな違いで、主人公の動機が変わってしまいます。アニメ版ではこのタイムリープで「ヒロイン(なずな)を救う」という目的が非常に強くなって行きます。そうです!『君の名は。』と同じですね。

タイムリープというのは非常にうまい方法で、ヒロインや周りの人物と、主人公と観客の2つのグループの間で情報のギャップを簡単に作ることができます。この情報のギャップが重要で、主人公にとって、タイムリープ前の記憶を保持していない相手に対するもどかしさ、苦しさを、観ている私たちは主人公に寄り添うように追体験することができ、共感できるわけです。

 

「繰り返す夏休みの1日、何度でも君に恋をする。」

 

というのはこの映画のコピーですが、「繰り返す」「何度でも」は昨今のタイムリープ映画には必須の要素ですね。

 

 

ただ、これがこの作品の混乱を招いている、というのもあるのではないか?と思うのです。

特に「花火が平たい世界線」の描写なんかはなかなか強引なことをやっています。

そもそも、タイムリープそのものは過去改変のリスクはあっても、世界そのものを変えることはほとんどありえないはず。*3しかしながら、アニメ版では花火の在り方が変わってしまっています。「花火が平たく打ち上がる世界線」は過去改変の影響によるものではありませんしね。書いていて非常にややこしいわけですが、過去改変を見ていたはずが、なんだか世界そのものの改変の話をしてしまうところにわけのわからなさが存在すると思うのです。*4

正直、この世界そのものを変えてしまう大掛かりな(?)改変は如何なものだったのか?と「原作厨」という評価を甘んじて受けるほどには原作の空気感が好きな私は思うわけです。

ミステリアスな雰囲気を醸しつつ始まり、昭和の匂いさえ香る青春ものから、終盤で一気にセカイ系へ引っ張ってしまったわけです。良くも悪くも場違いな幻想的な風景、そして暴力的なまでの絵画的美しさは、観客を圧倒させるというより、唖然とさせる方に向かってしまったのではないでしょうか。

 

あれ?青春物からセカイ系…『君の名は。』…?

 

 

兎にも角にも、タイムリープは作品の本質をも改変してしまったわけです。

 

 

 

・なぜ夜のプールのシーケンスをカットしたのか

さて、作品の本質の話をすると、クライマックスのシーンで原作とアニメ版では大きく異なります。原作ではどうなっていたのか、少し振り返ってみましょう。

原作を観ていない方は、まぁ電車に乗る/乗らないまではほぼ同じと考えていただいて大丈夫です。

岩井俊二のヒロインによくあることですが、原作では、駅で電車を待ち、いよいよ電車が来たところで、典道が「おい、電車乗るんだろ、切符買うんだろ?」というと、なずなは「切符?なんのこと?」と急に始まり、「あ!バス来た!」と結構大変な思いをしながら乗ってやってきたはずのバスに戻ってしまいます。意味不明ですね、主人公も困惑していました。*5

バスに戻り、陽も落ちた街に着いた2人。夜のプールに忍び込みます。*6プールに入り、潜り、出てこないなずな。典道がちょっと不安になる頃合で出てきます。*7典道もプールに入り、はしゃぐ2人。別の場所では男子4人組が好きな人を叫びます。アニメ版でも使われた劇中歌が流れる……。

 

水面に浮かぶ2人、なんだかいい雰囲気のなか、なずなは「花火は横から見ると平べったいのかな?」と静かに話し、「今度会えたら二学期だね、楽しみだね」と微笑み、典道のもとを去っていきます。

 

なずなはここで退場します。あと数分残っていますが、それは最後の項で話すとして、この「今度会えたら二学期だね」のセリフに原作の本質が詰まっています。

 

なずなは夏休みの間に転校することが決まっており、*8アニメ版ではその理由も含め、ヒロインの口から主人公に語られます。一方、原作では、ヒロインの転校は私たち観客に語られますが、主人公には全く語られません。つまり、典道は初恋の人であろう目の前のなずなが、二学期にはもう学校にいないことを知らないわけです。助ける救う以前に知らされていないのです。

 

 

二学期になり、そわそわしながら登校してきた典道を襲うであろう喪失・寂寥・後悔、そして失恋を予感できるのは私たちだけ。

これがこの作品の本質です。

 

 

 

その本質を変えてしまったのは作品の一番いいところを変えてしまったようなもので、チープなヒロインを救うヒーローという構図に、まさに退行してしまったのは悲しいことです。

 

 

・なぜそんなに花火を乱れ打つのか

さて、プールからあがった典道は花火大会会場へと向かいます。先生が彼氏といるところとばったり会い、「花火は丸いか平たいか」と疑問を投げかけます。先生は平たい、彼氏は(こいつも先生でしたっけ)丸い*9と言い合いになり、彼氏の友人である花火職人*10を紹介してもらい、花火を真下で見ることになります。男子4人組は灯台の上で、 花火を横から見ることになります。タイトルの通りですね。

 

非常に印象的なのが、花火が作品に映るのはこの1回きりだということです。1回きりだから印象に残る。当たり前ですが、アニメ版ではバカスカとオープニングから打ちまくるわけです。当たり前ですが、これからアニメ版が始まるんだな…と思いました。

 

少し前にも書きましたが、絵の美しさが暴力的なんですよね。なんだろう、ラッセン*11の絵を見て、「これは自分が求めている綺麗さではないな…」ってなる感じに近いでしょうか。

 

原作は低予算で夜撮も技術的な限界があって、偶然に近いような感じでこうなったのかもしれませんが、それにしても私は侘び寂びを蹴飛ばされたように感じてしまうわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・よかったこと

あんまりゴタゴタというのも気を悪くする方をおられるでしょうし、よかったことをば。

・現代風

展開の速さは今の映画って感じがします。逆に言えばもう少し時間を取って欲しかったシーンもありましたが。ただ、正直原作のペースであの長さはまず尺がもたないでしょう。展開が遅いと言ってる人は恋愛ものを見慣れていないだけだと思います。

・中学生であったこと

原作では小学生でした。恋愛物という下敷きがあり、現代の中高生・若者がターゲットなら中学生なのは頷けます。なずなちゃんのデザインも良かったです。特に和弘(インテリオタク)のデザインが好みでしたね。

・電車に乗ったこと

乗らないのが原作なので、乗ったこと自体が嬉しかったです。原作では見えなかった展開がある!と素直にワクワクしました。

・なずなを水に浸したこと

サンダルを海中に落とし…入水…という流れはアニメ版でこれまた独特の妖艶さを放っていました。ホースの水、水泳、入水と、水の表現は本当に美しかった…。

 ・主題歌「打上花火」

これはいい曲ですね。『何者』といい、東宝は積極的に米津玄師を起用します。米津玄師はそこまでよく知るわけではありませんが、いいものはいい。

エンドロールへの繋ぎも好きです。

 

 

 

 

と、まぁ色々と書いてみましたが、いざ書いてみて思うことは、原作では『君の名は。』とは大きくことなるものを描いているのに、アニメ版では『君の名は。』に相当引っ張られていることです。

身体と頭で作品の本質が変わっており、『君の名は。』を期待した人はナンジャコリャ、岩井俊二好きはそもそもアニメ映画を観る歳じゃない…というどっちつかずになっているように感じます。

 

流行りのタイムリープ広瀬すず菅田将暉*12、悪いところにスイッチが入ったのでしょうか。

 

 

 

 

 

『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は『君の名は。』ではありません。作られた時代背景も、監督も、ほとんどが異なるものです。

しかしながら、『君の名は。』に、必要以上に多大な影響を受けてしまった作品だったと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

*1:岩井俊二監督のスペシャルドラマ版、私はU-NEXTでNew Color Grading版を観ました。

*2:物語内での時間軸のことです。

*3:世界そのものの改変を崩壊という見方で考えると、ハリウッド映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では同じ世界線に2人の人間が存在できる設定だったので、その2人が出会うと因果律が崩壊、宇宙が崩壊する、という説明があります。

*4:それでも祐介ですかね、恋敵の発言で世界線の内容がわかるものにはなってるのが面白く感じました。

*5:何度でも言いますが、ミステリアスなヒロインというのは岩井俊二作品で切っても切れない関係にあると言えます。アスペルガー?違います。ミステリアスなんです。

*6:ここでの「これじゃ泥棒だな…」に「泥棒もいいな、泥棒になろうかな」となずなが返すところが本当に好きです。女の子が夜の学校に忍び込み、泥棒になろうかな?と話す絵、最高過ぎやしませんか?

*7:この辺り、女性の入水自殺(未遂)は源氏物語の宇治十帖からずっと日本人的な感性でロマンチックなんだな、と改めて思います。映画史的に有名なところだと溝口健二の『山椒大夫』とかそうですね。今原作を見返しながら、波紋のようなものが広がる世界線はプールの水面に浮かぶ波紋なのかもしれない、と思いました。

*8:原作では親の離婚、アニメ版では親の再婚

*9:ここで彼氏は火薬が爆発するんだから丸に決まってると言い、先生は団扇を例に反論します。ここの話がアニメ版ではよく使われました。

*10:このキャラ大好きです

*11:クリスチャン・ラッセン。イルカの絵とか有名ですね。ゴッホとかピカソより普通に好かれている画家です。

*12:申し訳ないですが彼の演技がダントツワーストだったと思います。

夕飯時、とある中華料理店で

 

ある中華料理店、混み合った夕飯時のある席に、年老いた女性と化粧の濃い女性が向かい合わせで座っている。母娘だろう、というのは直感と目尻の形でわかる。

 

娘は麻婆豆腐定食を、母は小さなチャーハン、そして餃子、取り皿を頼んだ。

大学生のアルバイトだろうか、男の子が一度も目の前の客を見ることなく、慣れた手つきで機械を操作し、そのオーダーを受ける。

 

少しするとその店員が料理を持ってくる。トレーにいっぱいになった皿を並べていく。麻婆豆腐、そのご飯、スープ、小さく盛られたチャーハン、餃子。

テーブルに置いた拍子でスープが少し溢れる。添えられていたレンゲに滴り、黄色く滲む。

 

「ご注文はこれでお揃いでしょうか?」

 

店員がオーダーの書かれた紙を見ながら言う。

紙は何かの油で隅が濡れている。

 

「取り皿忘れてる!」

 

ピシリとまだ若い方の女性が言う。

向かいの女性は店員の手をじっと見つめている。

 

店員は短く謝ると、そそくさと裏へ戻り、取り皿を持ってくる。

ちょっとした平皿。何にでも使えそうな小皿である。

 

女性はどうやら気に入らなかったようで、店員に突っかかる。

「何このお皿!」

「はぁ…」

「麻婆豆腐を入れるのにこんな底の浅い皿だったら溢れるでしょう!」

「え?、あぁ、はぁ、申し訳ございません、他のものを…」

「だいたい、お母さんがこんな小さなチャーハンじゃあお腹空いちゃうと思って取り皿を頼んだのよ?私がこんなに食べるわけないじゃない!」

 

女性は止まらない。

 

「スープも溢れてるし、これじゃレンゲの持つところが汚いじゃない!」

「この店は接客がなってない!あなたもずーっと下向いてボソボソ話してるだけ!」

「なんかもうこのメニュー表もギトギトしてるし……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相手に想像を強いておいて、自分は相手のことを全く考えていない例は結構ある。

 

店員は取り皿は餃子に使われると想像した。だが、女性は母娘の食べる量を想像しろ、と言う。

火がつけば燃え広がるもので、文句に文句がくっつき、何を言いたかったかなんてこと、最後にはもうどうでもよくなっている。

 

人のことを考えて発言をする。これは言葉を話し始めた頃からずっと言われ続けることだが、これが出来ている人は案外少ない。

「私はこう考える」が長年の経験において裏打ちされ、「人のことを考える」から」こう考えねば人ではない」というところに行ってしまう。

 

横で黙々と回鍋肉定食をかっこむ私ですら、その女性2人組の背景や考え、境遇などこれっぽっちも考えることなく、こうやって鬼の首を取ったような勢いでこういうところに書いてしまう。

 

 

次は自分の番かもしれない。

 

 

 

 

 

クワガタの話

夏になると思い出すことがある。

 

小学生の頃、北海道へ旅行をした折にミヤマクワガタを捕まえたことがある。

ミヤマクワガタは日本にいるクワガタにしては結構かっこいい見た目をしていて、まぁノコギリクワガタやオオクワガタなんかには人気では劣るが、逆にその少しハズした感じが「差をつけたい」小学生の私にとってぴったりだった。

 

私は捕まえたミヤマクワガタを飼おうと虫かごにいれ、関東の実家へ持ち帰る。

帰路の車に揺られながら、ミヤマクワガタへのストレスみたいなものを子どもなりに案じていた。

 

帰宅すると早速ミヤマクワガタの新居を構えた。

大きめの水槽に砂を敷き詰め、買ってきた木の棒の形をしたゼリー受けを静かに置く。

 

名前はスタッグ、と付けた。

クワガタを英訳するとStagだからだ。

安直で名前負けしそうだが、イケメンなミヤマクワガタにはいい名前だと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

約10日後には動きが悪くなり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう10日も過ぎるとまったく動かなくなり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらにもう10日もしたからきっと、庭の肥料になり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その数年後、庭はコンクリートで固められて駐輪スペースになった。

 

アニメレビューショウ 『正解するカド』

正解するカド

 

どうも、「よかった!」とは大きい声では言えない作品である。

 

老舗、東映アニメーションのオリジナルアニメ。そしてなぜか製作にはいっている木下グループ。

ポリゴンピクチュアズに負けじと3DCGで殴り込みをかける最先端のアニメ。

 

のはずだった。

 

フタを開けると、結局なんのジャンルに当てはまる作品なのかわからない、得体の知れないものがそこにはあった。

 

木下グループが製作に入り、0話では交渉官と町工場のやりとりが中心だったように、少し前にテレビドラマで流行った「官僚もの」のテイストを感じさせていた。

もちろんそれはフェイクで、結局はヤハクィザシュニナという、自分でもなぜ言えているのかわからないほど難解な名前のキャラクターによってリセットされる。

 

そうなると、ザシュニナ君つまり異方の人、まぁ宇宙人(全然違うけど)が、人類と出会って…というのを考える。この考えは物語を通して誰が変化するか?という点において整理できる。

主人公(人間)と宇宙人、そして世間である。

主人公が変化するのは当然だが、宇宙人に対して最初は否定的だった人が、友好関係になり、最後のお別れは悲しむ、というストーリーが展開されることが多い。スティーブン・スピルバーグE.T.』あたりがその好例だろう。

 

 

人と人、あるいは宇宙人、という点と線の関係から、「世間」という枠組みで語られるようになったのはここ最近になってからだと思う。というのも、SNSのような高速で拡散性の高いツールの存在と、宇宙人のような「異物」のあり方が、リテラシーなんかと共に問われる時代になったからだ。インフラ系SF、とでも呼ぼうか。

過度に進化したネットインフラとその世間を描いた作品だと『ガッチャマンクラウズ インサイト』あたりが挙げられるだろうか。社会に対して今よりももっと優れている(はずの)インフラを「異物」が提供する。それに対して社会がどう受容するか、するべきなのか。そういう点に焦点が当てられる。

 

正解するカド』もそういうところがある。エネルギー革命を起こせるテクノロジー、労働そのものも見方を変えるテクノロジーがどのような影響を与えるか。官僚たる主人公たちはそれを俯瞰しつつ、適切な対応をする…。

しかしながら、悲しいことに、それらしいシーンがあったのは「ワム」が与えられた時のアメリカの介入、程度である。それもいきなり最後通牒をちらつかせるなど、幼稚なものだった。あの辺りで気がつくべきだった。「そういうことがテーマではないのだ」と。

 

正解するカド』において、SNSやネットインフラの存在は、「情報を拡げるのに便利なもの」程度の認識だ。世界最大のプラットフォームとされるSettenの存在も、政府のコントロールできない状況を創り出すための演出上の装置でしかなかった。

 

 

 

 

 

物語の終盤、とっておきのサプライズ・ポイントはテレビに何かを投げつけたくなる気持ちにさせた。

 

ワムがここにあればよかったのに。投げられる。

 

 

 

……オーバーテクノロジーと社会の話ではなかった!騙された!、というのがそのサプライズ・ポイントを経た最初の感想である。

 

 

 

最後の数話で、綺麗な女の子が戦うところを観るアニメになり、戦闘が始まるかと思ったらすぐ終わり、紆余曲折があって恋愛ものになって、突如『アイアンマン』が始まったと思ったらホモアニメ、そして最後はとってつけたような家族愛とヒューマンドラマ。

 

 

今まで10話以上かけて積み上げてきたものを壊してまでやることだったのか、というと大きな疑問が残る。

故意に視聴者を置いてけぼりにする作品はあれど、それはあくまで作品を探索させる、分析させる余地を残しての場合のみ成立する。リンチの『マルホランドドライブ』、あるいはフィンチャーの『ゴーン・ガール』などがその例だ。

無論、『正解するカド』はそれらに値しない。高尚な余韻も、ライトノベルライクでチャチな恋愛関係と今となってはノイズと化した萌え要素によって消え去るからだ。

 

 

38次元だか何次元だったかもはやどうでもいいことだが、そこまで飛んで行って「結局なんにも残りませんでした」と済まされるものなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界一漢字変換の難しいヒロインであるツカエさんが可愛いということ以外に、取り立てて素晴らしい点はあっただろうか。

もちろん、可愛さを伝えにくい3DCGにおいて「可愛い」と思わせる技術は賞賛されるべきだ。

 

 

しかしながら、最後の最後まで「どういう作品なのか」がわかりにくい作品だった。

何を描きたいのか、どういう話なのか。

もちろん、特定のジャンルに拘泥する気はないが、私が言いたいのは作品の一貫性の無さである。

 

身体論だとか、切り分けようと思えばそれこそたくさんの要素に溢れる作品ではあった。細部を見れば興味深い作品なのだ。

ただ、細部だけで満足するならばその手の論文を読めば事足りるし、そういう見方をすると「実験映画」だとか、「卒業制作」だとか、テレビ放映されたアニメには不名誉な熟語が頭をよぎる。

 

 

 

 

オーバーテクノロジーを与えられた人類にとっての「正解」とはなんだったのか、ヤハクィザシュニナによる意味深な発言は、彼自身が人間性を会得することでなかったことになった。

彼が犠牲となり得たものは異方の人間と人類の共存、つまりはあの女の子なのだろうか。

もし異方との共存のあり方が混血によって綯交ぜになることなら、それはムラートだとかメスチソの話であって、わざわざ10数話のアニメでやることはなかったのだ。 

 

UFOやUMAの証言が取り留めもないように、『正解するカド』もまた取り留めのない、世界に転がっている「あまりオススメしないアニメ」の一つになってしまった。

 

 

 

 

 

 

空手をやっていました、という話

 

自分は決して背の高い方ではなく、むしろずっと小さいままに今までの人生の大半を過ごしていた。

成人式で最も言われた言葉1位は「背が高くなったね!」だった。

 

そんな華奢な自分。空手をやっていた時期がある。小1-4で割りと長いことやっていた。

4年やって面白さが全くわからず、結局嫌になって辞めてしまった。

帯の色は緑で終わった。ちなみにその道場だと次が茶色、その上が黒である。

 

帯の色というのは面白いもので、その人の強さ、経験をはっきりと表す。ガキンチョでもわかる力と階級の世界だ。

白、黄、青、緑、茶、黒、こういう順番だったと10年経った今でも記憶しているほどには印象に残っている。

ちなみに黒の上はまた白に戻る。黒帯が擦り切れに擦り切れて白くなるのだ。そういう人は道場に何名かいたが非常にかっこよかった。

 

 

空手を習ったことのある人は意外に多いと思う。

空手は形式が2つあり、「型」と「組手」がある。

「型」は個人競技だ。技の構成が決められており、それを試技して審査員に評価を受ける。

まさに型を美しく、たくましく行うことに意味がある。

今思えば武道の真髄を示すようで実にかっこいいものだが、小学生の自分、そんな良さなんかわからない。

ダンスだと思っていた。

 

ただ、昇級には型を覚える必要があり、試験前は必死になって覚えた。同期の子には絶対に負けたくなかった。

 

 

結局、自分は組手しか好きになれなかった。

組手は言うまでもなく殴り合いである。ポイント制だったか柔道や剣道のような形だったかは忘れたが、顔に装着された面(防具)を叩き殴ればいいのである。*1

この面が曲者で、顔を守るために作られているものだが、顔に強く固定されているので、殴られると痛くはないが衝撃でものすごく揺れる。

で、行き場を失った衝撃は顎をはじめとする際の方へ逃げていくので、結局痛い。

剣道の防具をつけた時に驚いた。ぶっ叩かれても痛くないとは!

 

 

当時の自分には戦法があった。

試合はじめの声の直後、迅雷の如く相手に猛進(盲進)し、一撃で勝負を決める、というものだ。

先手必勝、一撃必殺。

二撃目を想定せず、敵の出鼻を挫きに挫く。

「一の太刀を疑わず」とされた薩摩の示現流*2を彷彿とさせる必殺の戦法である。齢九つやそこらの人間がその境地に達するとは、東郷重位*3も現世にいれば舌を巻いたであろう。

 

 

……ようは真っ直ぐ突っ込んで殴るわけだ。

これが初手だと案外効く。普通は様子を見るから。

ただ所詮はアホな小学生の浅知恵に過ぎず、かわされたり失敗すれば手痛い反撃を受ける。諸刃の剣…というかギャンブルである。

 

 

空手は武道…ざっくりとスポーツなので大会もある。

型は一度出たきりだった。当時はダンスとほぼ同じ認識だった。

だいたい1回戦に勝ち、2回戦で上級生と当たって負ける、というのを何度もやった。

空手家としては全く芽は出なかった。

出す気もなかった。

 

 

辞めた理由はいくつかあるが、つまりは空手があまり好きではなかったというのが一番だった。

練習ではどうサボるか、どう時間を過ごすかを考えていたし、冬場でも裸足でなければいけないのが堪えた。

 

 

今となってはなぜ空手を始めたのかも定かではない。

当時は友だちもいた。男の子1人、女の子1人。三人組でいつもいたがあの2人が今なにしているかはわからない。女の子の名前だけは思い出せる。空手の先生が「そんなことやってると本に挟むぞ!」というジョークを話していたことを未だに覚えているからだ。オヤジギャグも侮れない。

 

 

 

得たものはよくわからないし、今や本当に自分が空手教室に通っていたのかさえ何だか捉えきれない思い出になってしまった。

 

ただまぁ、夏の夜の道場から帰るとき、木に吊るされた提灯の灯りとそれに照らされる石畳、そこに映える鮮やかな白色の道着、各々が蒸れた布の匂いを漂わせながら薄暗い道を歩いて行く様は(かなり)美化されつつも心象風景のひとつとして自分のなかに残っている。

 

 

 

*1:極真空手ではその面すらなしでやり合うのだからものすごい。あまりよく知らないが…。

*2:薩摩藩を中心に栄えた古流剣術。『先手必勝』を旨とし、「キィエーイ!」と激しく声を発しながら斬り込むことで有名。

*3:示現流の流祖。戦国時代から江戸時代の人で、島津氏に仕えた。

笑うことについて

 

 

中学時代の教師にすこし変わった人物がいた。

 

授業で丸々映画を観たり、テキストにマンガやアニメのキャラクターを起用したり、変なニックネームを使ったりと、すこし不真面目なイメージが親近感を呼び、随分と生徒に人気があった。

 

ある日、授業内で映画を観ることがあった。

もちろん洋画で、『俺たちフィギュアスケーター*1ジュマンジ*2と言ったラインナップだった。

 

なかなかのチョイスである。確か他の候補だと『バタフライ・エフェクト*3とかもあったと思う。

今だったら『ベイビー・トーク*4とかやって欲しいな。

 

 

その日は『ナイト ミュージアム』だった。

ナイト ミュージアム』は有名な映画だ。

夜の博物館に警備員として入った主人公。だが、その博物館では展示物の数々が夜になると命を吹き込まれ、動き出す。

でコメディあり感動ありのいい映画で、続編まである。

 

もちろん(?)吹き替えではなく字幕で観るのがお決まりで、コメディ映画なのもあってみなケラケラと笑っていた。

 

 

 

 

映画の上映が終わった後、その先生が締めるように話したことが印象的だった。

今君達はよく笑っていたが、人はいくら面白いものがあっても、その面白さを理解する頭がないと笑うことはできない、というものだった。

 

 

 

 

それもそうだ…と少し考えさせられたのを覚えている。

パロディなんかが最たるものだが、まず元ネタがわかっている知識が必要で、さらにそのシーンとの類似性を見抜く力がいる。そしてそれをシャレとして受け取り、笑う力。

ナイト ミュージアム』では歴史ネタがよく出てくる。古代ローマ、西部開拓時代、セオドアだったかフランクリンだったかルーズベルトの話。

なかには『テッド』*5のボストンネタ*6のように、日本人の感覚には少し難しいものもある。

ただ、その中で笑える、というのは案外高度なことをしているのかもしれない。

 

ハリウッドにとっては海外の、それも文化も人種も異なる極東の中学生にすらわかる面白さはさすがハリウッド!という感じだし、翻訳や(今回は違うが)吹き替えで面白くしようとする裏方の人の仕事もまた確実に無視できないものだ。

 

 

 

そういえば『ナイト ミュージアム』も3はまだ観ていなかったし、今度観てみるのもいいかもしれない。

 

*1:全米でヒットしたスポ根コメディ映画。ナヨナヨした男とセックス依存病の男がフィギュアスケート「ペア」をやる映画。

*2:これも有名な映画。止まったマスのことが実際に起きる不思議なすごろくの話。

*3:タイムリープものの大家。主人公はタイムリープを繰り返しながら過去を変えていくが、その影響で変わってしまう未来と葛藤していく話

*4:そのトークするベイビーがブルース・ウィリスの声。この面白さがわかれば好きだと思う。

*5:テディベアがノラ・ジョーンズとセックスした設定になってるすげぇ映画

*6:アメリカンフットボールのチーム、ニューイングランド・ペイトリオッツのロブ・グロンコウスキーのネタを持ち出したりと、ボストン以外にもそれはそれはものすごい量のパロディがある

ある冬の日のインターンの話

 

6月になり、自分の次の世代の就活が始まった。

「サマーインターン」という懐かしワードに触発され、冬に行ったインターンの話をしようと思う。

 

 

 

 

 

就活がいよいよ始まるという2月の中旬、私は1日限定のインターンに参加すべく東京にいた。

スーツだけではまだ寒く、私はコートを着ていたが、当時はスーツ用のコート*1を持っていなかったので大学に着ていくような普通のコートを着ていた。

時間は集合10分前。受付に向かうと女性社員が立っていて、グループワークの班に案内してくれた。

 

 

 

 

 

スーツ用でないコートが大量の毛玉を出し、脱いだ時には毛塗れのスーツに閉口しつつ、バシバシとスーツを叩きながら自己紹介をする。

「○○大学、○○です。今日はよろしくお願いします。」

 

特別変わったことは言わなかった。

 

 

すると、班での自己紹介はまだだったようで、左隣の女の子が自己紹介をする。そのまま時計回りで自己紹介をしていく。総勢7名。

 

 

斜向かいの男の子は大隈大学だそうだ。

大隈大学*2の友達は多いな、と考えていると、他の班のお喋りが聞こえてくる。

「どこから来たの?」「私、千葉」「えー!私も千葉!千葉のどこ?」

その話膨らましてなにが面白いのかなぁ…と考えていたら前で社員が喋りはじめた。

 

 

 

インターンが開始された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先ほどとは異なる側のお隣、つまり私の右側にはこれまた女の子が座っていた。

美人である。*3

大学のランクは周りの人間とは少し落ちるものの、スーツ姿になんとなく気品を感じていた。

 

 

人間、育ちは存外出るものだ。

文具の質、文字の書き方、書く時の姿勢、

所作の丁寧さやその意味の有無など、無意識だがしっかりと人が出てくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グループワークが始まる。

詳しくは覚えてないが、データを基にクライアントへの提案・発表を行う、というものだった。

始め、の合図とともに大隈大学の彼が話し始める。

どうやら彼はイニチアシブ*4をとりたいらしい。

 

イニチアシブはいいが、優秀な人がやらねば全く意味のないものになる。

…でも大隈大学か、優秀なのかな。

 

 

 

ライバルになるような学歴の人間はいないし、 彼に任せることにした。

 

 

 

私は配布されたデータを基に、まずは議論の路線を提示することにした。

だが、半分くらい話したところで必ず大隈大学の彼に遮られてしまう。

「あ!!うん!!そうそう!そのデータが…!」

いいから聞いてくれ…

 

やりとりを3回くらいしたところで、私はもう嫌になっていた。やりたい人がいるなら任せよう、敵視されて意見を通されないくらいなら大人になろう、な?と、自分に言い聞かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと、右側の女の子を見てみる。

手元のデータの見方に四苦八苦しているようだった。

失礼かな?と思いながら横から、簡単に説明する。職業柄、説明するのには慣れているからだろうか、しっかり伝わったようで、感謝された。

 

一瞬、缶コーヒーを例に持ち出して説明をしようとしたが、もしめちゃくちゃなお嬢様で、「あら、私、コンビニエンスストアは使ったことがなくてよ。いつもお父様が淹れてくださる、現地で豆からこだわったグァテマラ産のコーヒーしか飲まないの」とか言われたらどうしようかと思ったが。

 

 

…杞憂だった。

とても感謝された。

 

 

 

 

 

 

 

 

美人に感謝されるに吝かでない。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、データを読み取れないのは女の子にとってもツラいだろう。

議論はデータをもって進められる。そのデータを読み取れないのは議論の基盤についていけないことに繋がり、つまるところ落伍を意味する。

そうなると彼女は今日ここに来た意味はなくなるわけで、その労力も、金も、化粧も、心の準備も、まったくの無駄になる。

それはかわいそうだ、と変な視座から考える。

 

 

私はもう完全に風見鶏を決め込んでいたし、説明の間に他の5人で議論が進んでいて今更話を聞くわけにも戻すわけにもいかない。

無駄にしつつあるのは自分の方だとも思った。

この1日、この美人に賭すか…とかアホなことを考えていた。

 

 

 

私は彼女を援護しつつ、(自分にとっては)控えめな態度で意見を奏上した。言いたいことはいくらでもあった。議論の進め方、発表用模造紙のデザイン、そもそもの結論、不慣れなグループワークにストレスを感じる。

 

 

 

 

 

 

 

なんやかんやあって、女の子は模造紙へ文字を書く役割を担えたようだ。

字は特別綺麗ではなかったが、要所要所を締めた実に読みやすい字だった。

大隈大学の彼はと言うと、発表をする役割に立候補し、発表用原稿を書いていた。

「何か手伝おうか?」と訊くも、無視。

俺が一体何したんだ?と困惑するしかなかった。

 

 

結局、なんの役割も担えなかったのは自分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発表は滞りなく終わった。

そこまでいいものではなかったが、他の班も大概で、企業側もまぁこんなもんだよな、という反応だった。

 世界一適当な「お疲れ様でした」がグループ内で飛び交う。

 

 

 

プレゼン発表を見ていていつも思うが、わずか5分ばかりの発表のなかで、前半と後半で発表者をわけるのは意味がわからない。

代表者(発表者)は1人で十分だと思う。

なにより時間がもったいないし、聞く方は前半と後半で分業がなされていて、各々の部署から代表者を1名ずつ立てたのかな?と感じる。もし後者ならそれはグループワークの意味がなくなるのだが。

 

 

 

 

 

 

結局、どうも茶番のような形でインターンが終わってしまった。

企業側も学生側もマイナスなイメージを持たれたくない。そうすると自然と生温いものになる。

 

 

残念だな、と思いながら班員に挨拶し、もはや居心地の悪くなりつつあった自席からそそくさとビルの外へ出ると、もう夜になっていた。

 

 

 

 

ビル群の夜は嫌いじゃなかった。

寒いな、とコートを着ていると、先ほどの女の子が遅れて出てきた。

私と目が合うと「お疲れー!」とこっちにやってくる。

表情だけでリアクション。

とっさのことで、声はなかなか出てくれない。

やっと、「駅、向こう?」と訊く。

どうやら同じ駅のようだ。一緒に歩き出す。

 

 

 

 

 

先ほどの班で左側にいた女の子が視界の隅にチラッと見えた。

 

 

 

 

 

……見えただけにした。

 

 

 

 

 

 

インターン会場は幾つかの駅の間にあり、アクセスそのものは便利だったがそのぶん各駅までは少し歩くことになる。

駅までは話す時間が少しある。

インターンあるあるだろう。

 

女の子は思っていたより多弁で、色々と話してくれた。

広告代理店に勤めたいこと、姉がいて、ブラック企業に入社してしまっていたこと、サークルのこと、学校のこと。

なんとなくお嬢様なのだな、と重ねて思った。

余裕があるし、初対面の人に自分の家族の話をするのはなかなか珍しい。

表現しがたいが、「自分という存在が好意的に受け取られている」ことを前提にした話し方だった。

 

 

美人なのもあって、話すのは楽しかった。

興味の分野も共通するところはあり、合わせていくと本当に色々と話してくれた。

ところどころ住んでいる世界が違うな、と感じるのもまたよかった。

 

 

アインシュタインよろしく、*5楽しい時間は過ぎ去るもので、駅に着いた。

 

 

女の子は「○○行きだよ」と話す。○○はセレブな街で有名な場所だった。東京の西の方へ行くらしい。

 

 

なるほどな、と思いつつ、同じように答えなければならなくなった自分の行き先を呪った。

行き先となる埼玉の北の方の地名はどれも田舎臭い。

終点となりそうな北の方でなくても、全体的に埼玉感が出てしまう。

 

 

ひとしきり悩んで、「北のほう」とだけ言っておいた。

なんだそりゃ

 

 

言ってからなんだか古いドラマみたいだな、と思った。*6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はご飯に誘ったり連絡先を聞いたりする不埒な輩ではないので(勇気もないのだが)そこでお別れをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく不思議な気分だった。

就活をしていると、色々な人々の人生に出会う。

ほとんどが一期一会だが、それぞれの出会いが実に小さいながらもお互いに影響を及ぼしあっている。

出会いが云々と高説垂れる気はないが、人生のすれ違い、残像を重ねるようで面白い体験だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、そのインターン先の御社はエントリーしなかった。受ける業種も異なるので、班員やあの女の子とはもう二度と会わないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一期一会とはそういうものだが、悪い気持ちはしなかった。

 

 ただ、コートをもっとキチンとしたものにした方がよかったかな、と電車に揺られながら考えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

*1:ビジネスコート?とかそういう類の

*2:わかるとは思うが、クマがマスコットで高田馬場にある大学のことである。スクールカラーは臙脂色

*3:実際には「うっわ!かわい!」という反応

*4:この場合、マウントとも言う

*5:アインシュタインは構築した相対性理論に関して、「熱いストーブの上に1分間手を当ててみて下さい、まるで1時間位に感じられる。では可愛い女の子と一緒に1時間座っているとどうだろう、まるで1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です」とのユニークな言葉を残している。出典はWikipedia

*6:具体的には『あまちゃん』の「潮騒のメモリー」の一節、「北へ帰るの 誰にも会わずに 低気圧に乗って 北へ向かうわ」の部分、そしてそのパロディ元の「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)「高気圧ガール」(山下達郎)。